2026-03-28

オランダの公園に学ぶ「余白」の大切さ

オランダはとても自然が豊か

オランダでの生活も2年目に突入しました。

この国で暮らしていて感じることの1つに、「春と秋は花粉症がつらい。」ということがあります。

確かに周りを見渡せば、住宅街の中にも木々が溢れ、少し先には大きな湖や広大な森。そして、牛や馬、羊を放牧している湿地帯(のような場所)が至る所にあります。
オランダは、国土こそ小さいものの、驚くほど自然が豊かです。

まちの中には、大小様々な公園があります。日本との違いは、公園というのが「子どもが遊ぶ場所」という概念ではなく、散歩をしたり、ランニングをしたり「人々が自然を楽しむ場所」として日常に溶け込んでいることです。

大きな自然公園では、森林浴を楽しんだり、サイクリングロードでゆっくりと自転車を走らせたりする人たちの姿が見られ、「自然と共に暮らす」という感覚が、都市生活の中に自然に組み込まれています。

国土の3分の1は人工物。「デザインされた自然」

しかし、驚くべきことに、オランダの緑の多くは「人工的に作られた自然」です。

例えば、私が住んでいるすぐ近くに、ニューヨーク・セントラルパークの3倍の広さを誇る「アムステルダムセ・ボス(Amsterdamse Bos)」という公園があります。ここは1930年代、世界恐慌による失業対策として、2万人以上の手によってゼロから植林・造成された巨大な人工森林公園です。

湿地帯を干拓して作られた国”オランダ”。考えてみれば確かに、このような森は元々ここには存在しなかったのです。

多世代が混ざり合う、心地よい「動線のカオス」

このような大規模な郊外の公園の他にも街中にも大きな公園が存在します。活気あるマーケットとお洒落なカフェが立ち並ぶデ・パイプ(De Pijp)地区にはたくさんの買い物客や観光客が訪れますが、その中心には大きな公園があります。

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そこで感じたことは、公園は「子どもの遊び場」「お年寄りの憩いの場」ではなく、社会の縮図のような公共空間としても機能しています。

そこには、自然の素材で作られた遊具があり、未就学児や小学生が元気に遊んでいます。
その隣では、健康器具や卓球台が設置され、年配の方々が身体を動かしています。
その横を若者たちが自転車で通り抜け、その奥には広い芝生が広がり、寝転んで読書する人や、ノーリードの犬が全速力で駆け回っている姿が見られます。

若者も子どもも老人も楽しめる「動線が混じる公園」

このように、いろんな動線が混じり合っているのがオランダの公園の特徴です。
日本では、「安全」や「リスク管理」を優先し、対象者や動線のエリアを分けるのが一般的ですが、オランダでは「多様な人々が同じ空間に混ざること」を前提に設計されています。
日本の感覚では危うさも感じますが、そこには笑顔が溢れています。この「動線のカオス」こそが、公共空間の豊かさを生んでいるように感じます。

多様な公園とスケール感

オランダには、動物とふれあえる公園や、広大な遊具のある公園など、バリエーションも豊富です。
どの公園も、それぞれの地域の特色や暮らしに根ざしています。

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驚くべきはそのスケール。
小さな国なのに、とにかく公園がとても大きい
日本人の感覚からすると「無駄に広い」と感じるほどです。
でもその「余白」こそが、オランダらしい豊かさを象徴しているように思います。

何のコンテンツもなく、ただ木々が茂り、風が通り抜ける——
そんな空間が「あること自体」に価値がある。
オランダでは、公園は機能を詰め込む場所ではなく、自然と人が自由に交わる場所として存在しています。

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自由と責任の裏返し

しかし、この自由な空間には常にリスクが隣り合わせです。

先日、私が3歳の娘と公園で遊んでいた時、そこには数組の親子がいました。しばらくすると、母親が大声で子供の名前を叫びパニックになっている場面に遭遇しました。

公園内で幼児が母親の視界から消え、いなくなってしまったのです。

オランダの公園は自然を活かしているため、背の高い茂みが多く、池や運河に柵もありません。この公園にも幼児用の遊具のすぐ隣は大きな池がありました。

母親の叫び声を聞いた瞬間、その場にいた大人たちが一斉に立ち上がり、全員で探し始めました。私も一緒になって池の近くや茂みの中を探しました。

幸い子どもは、少し離れた歩道の先に居て無事に見つかりましたが、ヒヤッとした瞬間でした。

「管理された安全」がない代わりに、自然との距離が近く、自然と人が自由に交わる場所である以上、リスクを引き受けながら自由を楽しむという「個人の責任」があるのだと痛感しました。

日本の「コンテンツ文化」と、オランダの「余白文化」

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オランダでは、太陽が出た日はカフェのテラスやベランダに出て日光浴をする年配の方を多く見かけます。
また、散歩をしたりランニングをする人も多くみかけます。
自然が近いこのような環境はそんなオランダ人にとってとても過ごしやすい環境なんだと思います。
一方で、人によっては「退屈」に感じるかもしれません。特に、若い世代の子達の中には日本の渋谷や原宿のような刺激的な「コンテンツ文化」に惹かれる子達がいるということも耳にします。
確かに日本は様々なコンテンツ、娯楽に溢れています。特に海外の若者が想像する「TOKYO」ではなおさら。

常に「何かがある」刺激的なコンテンツを要する日本と何も押し付けられない「余白」を要するオランダ。
どちらが良い悪いではなく、私たちの心には「刺激」と「余白」の両方が必要なのかもしれません。

これからの豊かさを考える

オランダでは、今も昔も住宅不足が深刻です。
限られた国土に対して圧倒的に住宅地が足りていないということです。
これは、冒頭の大きな公園を作った1930年代から起こっていました。
しかし、経済成長のために住宅地や工業用地を作らずに、あえて広大な森林公園を造成するという選択をしたのです。

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「緑の肺」というインフラ

彼らにとって公園は、単なる娯楽施設ではなく、都市が呼吸するための「肺」という不可欠なインフラ(公共設備)でした。住宅を建てる前に、まず人間が人間らしく生きるための「空気とスペース」を確保しなければならない、ということを優先したのです。

住宅地は後からでも作れますが、生態系を伴う広大な森は数十年かけなければ育ちません。土地を「余白」として保守し、未来の都市を窒息させないために、極めて長期的な時間軸で土地を利用しています。

「住宅不足という目先の課題に屈せず、100年後の都市の呼吸のために『何もない場所』を人力で作った」という都市計画の意志も強く感じました。

便利さと人間らしい生活

私は公務員時代、企業立地や企業誘致を担当する部署に所属していました。そこでは、経済成長のため、田んぼを大規模な工業用地に転換するという業務を担っていました。
仕事ではあったものの、個人としては大きな疑問を感じながら業務にあたっていて、よく上司に「本当にやるんですか?もう2度とこの自然は戻ってこないんですよ?」「人間は米は食べれても、ネジは食べれませんよ?」と反発していたのを思い出します。生意気なこと言ってすみませんでした。

しかし、当時の私に、その代替案を出せる力はなく、大きな流れに身を任せるしかありませんでした。
(その計画は地元民の反対もあり、現在も田んぼとして残っていることに安心しています。)

2年目の春、鼻をムズムズさせながら公園を歩きつつ思うのは、この「デザインされた余白」こそがオランダ人の「心のゆとり(余白)」を生んでいるのではないか、ということです。

人間らしい生活とは何なのか、便利さを求めながら自然と共生するとはどういうことなのか。その解を鼻水を啜りながらオランダの公園で考えてみようと思います。

オランダはとても自然が豊か

オランダでの生活も2年目に突入しました。

この国で暮らしていて感じることの1つに、「春と秋は花粉症がつらい。」ということがあります。

確かに周りを見渡せば、住宅街の中にも木々が溢れ、少し先には大きな湖や広大な森。そして、牛や馬、羊を放牧している湿地帯(のような場所)が至る所にあります。
オランダは、国土こそ小さいものの、驚くほど自然が豊かです。

まちの中には、大小様々な公園があります。日本との違いは、公園というのが「子どもが遊ぶ場所」という概念ではなく、散歩をしたり、ランニングをしたり「人々が自然を楽しむ場所」として日常に溶け込んでいることです。

大きな自然公園では、森林浴を楽しんだり、サイクリングロードでゆっくりと自転車を走らせたりする人たちの姿が見られ、「自然と共に暮らす」という感覚が、都市生活の中に自然に組み込まれています。

国土の3分の1は人工物。「デザインされた自然」

しかし、驚くべきことに、オランダの緑の多くは「人工的に作られた自然」です。

例えば、私が住んでいるすぐ近くに、ニューヨーク・セントラルパークの3倍の広さを誇る「アムステルダムセ・ボス(Amsterdamse Bos)」という公園があります。ここは1930年代、世界恐慌による失業対策として、2万人以上の手によってゼロから植林・造成された巨大な人工森林公園です。

湿地帯を干拓して作られた国”オランダ”。考えてみれば確かに、このような森は元々ここには存在しなかったのです。

多世代が混ざり合う、心地よい「動線のカオス」

このような大規模な郊外の公園の他にも街中にも大きな公園が存在します。活気あるマーケットとお洒落なカフェが立ち並ぶデ・パイプ(De Pijp)地区にはたくさんの買い物客や観光客が訪れますが、その中心には大きな公園があります。

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そこで感じたことは、公園は「子どもの遊び場」「お年寄りの憩いの場」ではなく、社会の縮図のような公共空間としても機能しています。

そこには、自然の素材で作られた遊具があり、未就学児や小学生が元気に遊んでいます。
その隣では、健康器具や卓球台が設置され、年配の方々が身体を動かしています。
その横を若者たちが自転車で通り抜け、その奥には広い芝生が広がり、寝転んで読書する人や、ノーリードの犬が全速力で駆け回っている姿が見られます。

若者も子どもも老人も楽しめる「動線が混じる公園」

このように、いろんな動線が混じり合っているのがオランダの公園の特徴です。
日本では、「安全」や「リスク管理」を優先し、対象者や動線のエリアを分けるのが一般的ですが、オランダでは「多様な人々が同じ空間に混ざること」を前提に設計されています。
日本の感覚では危うさも感じますが、そこには笑顔が溢れています。この「動線のカオス」こそが、公共空間の豊かさを生んでいるように感じます。

多様な公園とスケール感

オランダには、動物とふれあえる公園や、広大な遊具のある公園など、バリエーションも豊富です。
どの公園も、それぞれの地域の特色や暮らしに根ざしています。

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驚くべきはそのスケール。
小さな国なのに、とにかく公園がとても大きい
日本人の感覚からすると「無駄に広い」と感じるほどです。
でもその「余白」こそが、オランダらしい豊かさを象徴しているように思います。

何のコンテンツもなく、ただ木々が茂り、風が通り抜ける——
そんな空間が「あること自体」に価値がある。
オランダでは、公園は機能を詰め込む場所ではなく、自然と人が自由に交わる場所として存在しています。

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自由と責任の裏返し

しかし、この自由な空間には常にリスクが隣り合わせです。

先日、私が3歳の娘と公園で遊んでいた時、そこには数組の親子がいました。しばらくすると、母親が大声で子供の名前を叫びパニックになっている場面に遭遇しました。

公園内で幼児が母親の視界から消え、いなくなってしまったのです。

オランダの公園は自然を活かしているため、背の高い茂みが多く、池や運河に柵もありません。この公園にも幼児用の遊具のすぐ隣は大きな池がありました。

母親の叫び声を聞いた瞬間、その場にいた大人たちが一斉に立ち上がり、全員で探し始めました。私も一緒になって池の近くや茂みの中を探しました。

幸い子どもは、少し離れた歩道の先に居て無事に見つかりましたが、ヒヤッとした瞬間でした。

「管理された安全」がない代わりに、自然との距離が近く、自然と人が自由に交わる場所である以上、リスクを引き受けながら自由を楽しむという「個人の責任」があるのだと痛感しました。

日本の「コンテンツ文化」と、オランダの「余白文化」

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オランダでは、太陽が出た日はカフェのテラスやベランダに出て日光浴をする年配の方を多く見かけます。
また、散歩をしたりランニングをする人も多くみかけます。
自然が近いこのような環境はそんなオランダ人にとってとても過ごしやすい環境なんだと思います。
一方で、人によっては「退屈」に感じるかもしれません。特に、若い世代の子達の中には日本の渋谷や原宿のような刺激的な「コンテンツ文化」に惹かれる子達がいるということも耳にします。
確かに日本は様々なコンテンツ、娯楽に溢れています。特に海外の若者が想像する「TOKYO」ではなおさら。

常に「何かがある」刺激的なコンテンツを要する日本と何も押し付けられない「余白」を要するオランダ。
どちらが良い悪いではなく、私たちの心には「刺激」と「余白」の両方が必要なのかもしれません。

これからの豊かさを考える

オランダでは、今も昔も住宅不足が深刻です。
限られた国土に対して圧倒的に住宅地が足りていないということです。
これは、冒頭の大きな公園を作った1930年代から起こっていました。
しかし、経済成長のために住宅地や工業用地を作らずに、あえて広大な森林公園を造成するという選択をしたのです。

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「緑の肺」というインフラ

彼らにとって公園は、単なる娯楽施設ではなく、都市が呼吸するための「肺」という不可欠なインフラ(公共設備)でした。住宅を建てる前に、まず人間が人間らしく生きるための「空気とスペース」を確保しなければならない、ということを優先したのです。

住宅地は後からでも作れますが、生態系を伴う広大な森は数十年かけなければ育ちません。土地を「余白」として保守し、未来の都市を窒息させないために、極めて長期的な時間軸で土地を利用しています。

「住宅不足という目先の課題に屈せず、100年後の都市の呼吸のために『何もない場所』を人力で作った」という都市計画の意志も強く感じました。

便利さと人間らしい生活

私は公務員時代、企業立地や企業誘致を担当する部署に所属していました。そこでは、経済成長のため、田んぼを大規模な工業用地に転換するという業務を担っていました。
仕事ではあったものの、個人としては大きな疑問を感じながら業務にあたっていて、よく上司に「本当にやるんですか?もう2度とこの自然は戻ってこないんですよ?」「人間は米は食べれても、ネジは食べれませんよ?」と反発していたのを思い出します。生意気なこと言ってすみませんでした。

しかし、当時の私に、その代替案を出せる力はなく、大きな流れに身を任せるしかありませんでした。
(その計画は地元民の反対もあり、現在も田んぼとして残っていることに安心しています。)

2年目の春、鼻をムズムズさせながら公園を歩きつつ思うのは、この「デザインされた余白」こそがオランダ人の「心のゆとり(余白)」を生んでいるのではないか、ということです。

人間らしい生活とは何なのか、便利さを求めながら自然と共生するとはどういうことなのか。その解を鼻水を啜りながらオランダの公園で考えてみようと思います。

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2026-03-28

オランダの公園に学ぶ「余白」の大切さ

オランダはとても自然が豊か

オランダでの生活も2年目に突入しました。

この国で暮らしていて感じることの1つに、「春と秋は花粉症がつらい。」ということがあります。

確かに周りを見渡せば、住宅街の中にも木々が溢れ、少し先には大きな湖や広大な森。そして、牛や馬、羊を放牧している湿地帯(のような場所)が至る所にあります。
オランダは、国土こそ小さいものの、驚くほど自然が豊かです。

まちの中には、大小様々な公園があります。日本との違いは、公園というのが「子どもが遊ぶ場所」という概念ではなく、散歩をしたり、ランニングをしたり「人々が自然を楽しむ場所」として日常に溶け込んでいることです。

大きな自然公園では、森林浴を楽しんだり、サイクリングロードでゆっくりと自転車を走らせたりする人たちの姿が見られ、「自然と共に暮らす」という感覚が、都市生活の中に自然に組み込まれています。

国土の3分の1は人工物。「デザインされた自然」

しかし、驚くべきことに、オランダの緑の多くは「人工的に作られた自然」です。

例えば、私が住んでいるすぐ近くに、ニューヨーク・セントラルパークの3倍の広さを誇る「アムステルダムセ・ボス(Amsterdamse Bos)」という公園があります。ここは1930年代、世界恐慌による失業対策として、2万人以上の手によってゼロから植林・造成された巨大な人工森林公園です。

湿地帯を干拓して作られた国”オランダ”。考えてみれば確かに、このような森は元々ここには存在しなかったのです。

多世代が混ざり合う、心地よい「動線のカオス」

このような大規模な郊外の公園の他にも街中にも大きな公園が存在します。活気あるマーケットとお洒落なカフェが立ち並ぶデ・パイプ(De Pijp)地区にはたくさんの買い物客や観光客が訪れますが、その中心には大きな公園があります。

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そこで感じたことは、公園は「子どもの遊び場」「お年寄りの憩いの場」ではなく、社会の縮図のような公共空間としても機能しています。

そこには、自然の素材で作られた遊具があり、未就学児や小学生が元気に遊んでいます。
その隣では、健康器具や卓球台が設置され、年配の方々が身体を動かしています。
その横を若者たちが自転車で通り抜け、その奥には広い芝生が広がり、寝転んで読書する人や、ノーリードの犬が全速力で駆け回っている姿が見られます。

若者も子どもも老人も楽しめる「動線が混じる公園」

このように、いろんな動線が混じり合っているのがオランダの公園の特徴です。
日本では、「安全」や「リスク管理」を優先し、対象者や動線のエリアを分けるのが一般的ですが、オランダでは「多様な人々が同じ空間に混ざること」を前提に設計されています。
日本の感覚では危うさも感じますが、そこには笑顔が溢れています。この「動線のカオス」こそが、公共空間の豊かさを生んでいるように感じます。

多様な公園とスケール感

オランダには、動物とふれあえる公園や、広大な遊具のある公園など、バリエーションも豊富です。
どの公園も、それぞれの地域の特色や暮らしに根ざしています。

画像

驚くべきはそのスケール。
小さな国なのに、とにかく公園がとても大きい
日本人の感覚からすると「無駄に広い」と感じるほどです。
でもその「余白」こそが、オランダらしい豊かさを象徴しているように思います。

何のコンテンツもなく、ただ木々が茂り、風が通り抜ける——
そんな空間が「あること自体」に価値がある。
オランダでは、公園は機能を詰め込む場所ではなく、自然と人が自由に交わる場所として存在しています。

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自由と責任の裏返し

しかし、この自由な空間には常にリスクが隣り合わせです。

先日、私が3歳の娘と公園で遊んでいた時、そこには数組の親子がいました。しばらくすると、母親が大声で子供の名前を叫びパニックになっている場面に遭遇しました。

公園内で幼児が母親の視界から消え、いなくなってしまったのです。

オランダの公園は自然を活かしているため、背の高い茂みが多く、池や運河に柵もありません。この公園にも幼児用の遊具のすぐ隣は大きな池がありました。

母親の叫び声を聞いた瞬間、その場にいた大人たちが一斉に立ち上がり、全員で探し始めました。私も一緒になって池の近くや茂みの中を探しました。

幸い子どもは、少し離れた歩道の先に居て無事に見つかりましたが、ヒヤッとした瞬間でした。

「管理された安全」がない代わりに、自然との距離が近く、自然と人が自由に交わる場所である以上、リスクを引き受けながら自由を楽しむという「個人の責任」があるのだと痛感しました。

日本の「コンテンツ文化」と、オランダの「余白文化」

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オランダでは、太陽が出た日はカフェのテラスやベランダに出て日光浴をする年配の方を多く見かけます。
また、散歩をしたりランニングをする人も多くみかけます。
自然が近いこのような環境はそんなオランダ人にとってとても過ごしやすい環境なんだと思います。
一方で、人によっては「退屈」に感じるかもしれません。特に、若い世代の子達の中には日本の渋谷や原宿のような刺激的な「コンテンツ文化」に惹かれる子達がいるということも耳にします。
確かに日本は様々なコンテンツ、娯楽に溢れています。特に海外の若者が想像する「TOKYO」ではなおさら。

常に「何かがある」刺激的なコンテンツを要する日本と何も押し付けられない「余白」を要するオランダ。
どちらが良い悪いではなく、私たちの心には「刺激」と「余白」の両方が必要なのかもしれません。

これからの豊かさを考える

オランダでは、今も昔も住宅不足が深刻です。
限られた国土に対して圧倒的に住宅地が足りていないということです。
これは、冒頭の大きな公園を作った1930年代から起こっていました。
しかし、経済成長のために住宅地や工業用地を作らずに、あえて広大な森林公園を造成するという選択をしたのです。

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「緑の肺」というインフラ

彼らにとって公園は、単なる娯楽施設ではなく、都市が呼吸するための「肺」という不可欠なインフラ(公共設備)でした。住宅を建てる前に、まず人間が人間らしく生きるための「空気とスペース」を確保しなければならない、ということを優先したのです。

住宅地は後からでも作れますが、生態系を伴う広大な森は数十年かけなければ育ちません。土地を「余白」として保守し、未来の都市を窒息させないために、極めて長期的な時間軸で土地を利用しています。

「住宅不足という目先の課題に屈せず、100年後の都市の呼吸のために『何もない場所』を人力で作った」という都市計画の意志も強く感じました。

便利さと人間らしい生活

私は公務員時代、企業立地や企業誘致を担当する部署に所属していました。そこでは、経済成長のため、田んぼを大規模な工業用地に転換するという業務を担っていました。
仕事ではあったものの、個人としては大きな疑問を感じながら業務にあたっていて、よく上司に「本当にやるんですか?もう2度とこの自然は戻ってこないんですよ?」「人間は米は食べれても、ネジは食べれませんよ?」と反発していたのを思い出します。生意気なこと言ってすみませんでした。

しかし、当時の私に、その代替案を出せる力はなく、大きな流れに身を任せるしかありませんでした。
(その計画は地元民の反対もあり、現在も田んぼとして残っていることに安心しています。)

2年目の春、鼻をムズムズさせながら公園を歩きつつ思うのは、この「デザインされた余白」こそがオランダ人の「心のゆとり(余白)」を生んでいるのではないか、ということです。

人間らしい生活とは何なのか、便利さを求めながら自然と共生するとはどういうことなのか。その解を鼻水を啜りながらオランダの公園で考えてみようと思います。

オランダはとても自然が豊か

オランダでの生活も2年目に突入しました。

この国で暮らしていて感じることの1つに、「春と秋は花粉症がつらい。」ということがあります。

確かに周りを見渡せば、住宅街の中にも木々が溢れ、少し先には大きな湖や広大な森。そして、牛や馬、羊を放牧している湿地帯(のような場所)が至る所にあります。
オランダは、国土こそ小さいものの、驚くほど自然が豊かです。

まちの中には、大小様々な公園があります。日本との違いは、公園というのが「子どもが遊ぶ場所」という概念ではなく、散歩をしたり、ランニングをしたり「人々が自然を楽しむ場所」として日常に溶け込んでいることです。

大きな自然公園では、森林浴を楽しんだり、サイクリングロードでゆっくりと自転車を走らせたりする人たちの姿が見られ、「自然と共に暮らす」という感覚が、都市生活の中に自然に組み込まれています。

国土の3分の1は人工物。「デザインされた自然」

しかし、驚くべきことに、オランダの緑の多くは「人工的に作られた自然」です。

例えば、私が住んでいるすぐ近くに、ニューヨーク・セントラルパークの3倍の広さを誇る「アムステルダムセ・ボス(Amsterdamse Bos)」という公園があります。ここは1930年代、世界恐慌による失業対策として、2万人以上の手によってゼロから植林・造成された巨大な人工森林公園です。

湿地帯を干拓して作られた国”オランダ”。考えてみれば確かに、このような森は元々ここには存在しなかったのです。

多世代が混ざり合う、心地よい「動線のカオス」

このような大規模な郊外の公園の他にも街中にも大きな公園が存在します。活気あるマーケットとお洒落なカフェが立ち並ぶデ・パイプ(De Pijp)地区にはたくさんの買い物客や観光客が訪れますが、その中心には大きな公園があります。

画像

そこで感じたことは、公園は「子どもの遊び場」「お年寄りの憩いの場」ではなく、社会の縮図のような公共空間としても機能しています。

そこには、自然の素材で作られた遊具があり、未就学児や小学生が元気に遊んでいます。
その隣では、健康器具や卓球台が設置され、年配の方々が身体を動かしています。
その横を若者たちが自転車で通り抜け、その奥には広い芝生が広がり、寝転んで読書する人や、ノーリードの犬が全速力で駆け回っている姿が見られます。

若者も子どもも老人も楽しめる「動線が混じる公園」

このように、いろんな動線が混じり合っているのがオランダの公園の特徴です。
日本では、「安全」や「リスク管理」を優先し、対象者や動線のエリアを分けるのが一般的ですが、オランダでは「多様な人々が同じ空間に混ざること」を前提に設計されています。
日本の感覚では危うさも感じますが、そこには笑顔が溢れています。この「動線のカオス」こそが、公共空間の豊かさを生んでいるように感じます。

多様な公園とスケール感

オランダには、動物とふれあえる公園や、広大な遊具のある公園など、バリエーションも豊富です。
どの公園も、それぞれの地域の特色や暮らしに根ざしています。

画像

驚くべきはそのスケール。
小さな国なのに、とにかく公園がとても大きい
日本人の感覚からすると「無駄に広い」と感じるほどです。
でもその「余白」こそが、オランダらしい豊かさを象徴しているように思います。

何のコンテンツもなく、ただ木々が茂り、風が通り抜ける——
そんな空間が「あること自体」に価値がある。
オランダでは、公園は機能を詰め込む場所ではなく、自然と人が自由に交わる場所として存在しています。

画像

自由と責任の裏返し

しかし、この自由な空間には常にリスクが隣り合わせです。

先日、私が3歳の娘と公園で遊んでいた時、そこには数組の親子がいました。しばらくすると、母親が大声で子供の名前を叫びパニックになっている場面に遭遇しました。

公園内で幼児が母親の視界から消え、いなくなってしまったのです。

オランダの公園は自然を活かしているため、背の高い茂みが多く、池や運河に柵もありません。この公園にも幼児用の遊具のすぐ隣は大きな池がありました。

母親の叫び声を聞いた瞬間、その場にいた大人たちが一斉に立ち上がり、全員で探し始めました。私も一緒になって池の近くや茂みの中を探しました。

幸い子どもは、少し離れた歩道の先に居て無事に見つかりましたが、ヒヤッとした瞬間でした。

「管理された安全」がない代わりに、自然との距離が近く、自然と人が自由に交わる場所である以上、リスクを引き受けながら自由を楽しむという「個人の責任」があるのだと痛感しました。

日本の「コンテンツ文化」と、オランダの「余白文化」

画像

オランダでは、太陽が出た日はカフェのテラスやベランダに出て日光浴をする年配の方を多く見かけます。
また、散歩をしたりランニングをする人も多くみかけます。
自然が近いこのような環境はそんなオランダ人にとってとても過ごしやすい環境なんだと思います。
一方で、人によっては「退屈」に感じるかもしれません。特に、若い世代の子達の中には日本の渋谷や原宿のような刺激的な「コンテンツ文化」に惹かれる子達がいるということも耳にします。
確かに日本は様々なコンテンツ、娯楽に溢れています。特に海外の若者が想像する「TOKYO」ではなおさら。

常に「何かがある」刺激的なコンテンツを要する日本と何も押し付けられない「余白」を要するオランダ。
どちらが良い悪いではなく、私たちの心には「刺激」と「余白」の両方が必要なのかもしれません。

これからの豊かさを考える

オランダでは、今も昔も住宅不足が深刻です。
限られた国土に対して圧倒的に住宅地が足りていないということです。
これは、冒頭の大きな公園を作った1930年代から起こっていました。
しかし、経済成長のために住宅地や工業用地を作らずに、あえて広大な森林公園を造成するという選択をしたのです。

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「緑の肺」というインフラ

彼らにとって公園は、単なる娯楽施設ではなく、都市が呼吸するための「肺」という不可欠なインフラ(公共設備)でした。住宅を建てる前に、まず人間が人間らしく生きるための「空気とスペース」を確保しなければならない、ということを優先したのです。

住宅地は後からでも作れますが、生態系を伴う広大な森は数十年かけなければ育ちません。土地を「余白」として保守し、未来の都市を窒息させないために、極めて長期的な時間軸で土地を利用しています。

「住宅不足という目先の課題に屈せず、100年後の都市の呼吸のために『何もない場所』を人力で作った」という都市計画の意志も強く感じました。

便利さと人間らしい生活

私は公務員時代、企業立地や企業誘致を担当する部署に所属していました。そこでは、経済成長のため、田んぼを大規模な工業用地に転換するという業務を担っていました。
仕事ではあったものの、個人としては大きな疑問を感じながら業務にあたっていて、よく上司に「本当にやるんですか?もう2度とこの自然は戻ってこないんですよ?」「人間は米は食べれても、ネジは食べれませんよ?」と反発していたのを思い出します。生意気なこと言ってすみませんでした。

しかし、当時の私に、その代替案を出せる力はなく、大きな流れに身を任せるしかありませんでした。
(その計画は地元民の反対もあり、現在も田んぼとして残っていることに安心しています。)

2年目の春、鼻をムズムズさせながら公園を歩きつつ思うのは、この「デザインされた余白」こそがオランダ人の「心のゆとり(余白)」を生んでいるのではないか、ということです。

人間らしい生活とは何なのか、便利さを求めながら自然と共生するとはどういうことなのか。その解を鼻水を啜りながらオランダの公園で考えてみようと思います。

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